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「公立高校復権で、もはや中学受験をする意味はない」
これ、とてもよく聞く言説なんですが、何を言っているのかよくわからないというのが正直な感想なんですね。というより、こういう言説が出てくるあたりに、この国の受験偏重の病理的教育観の闇があるように思います。
おそらく「公立高校復権」というのは公立高校の難関大学進学実績が向上していることを指しているのでしょう。
私自身も「何を言っているのかよく分からない」という感想を持っています。
しかし、意味合いが多少違います。
というのも、(全盛期から見ると)「公立高校(=都立高校)復権には程遠い」と思うからです。
ナンバースクールを前身とする都立名門校
「都立復権」の代表格ともいえる日比谷高校の前身は明治時代に設立された東京府立第1中学。
都(府)立のナンバースクールには以下のような学校があり、進学指導重点校(7校)を見ると1校(八王子東)を除くすべてがナンバースクールです。
また、中学受験の難関校としても知られる小石川中等教育学校や、併設型中高一貫校の両国高校(両国)なども古くからの名門校です。
東大合格者数の「今昔」
今を遡ること56年前。
1965年(昭和40年)の都立高校の東大合格者数は以下の通りでした。
合格者数トップ3はすべて都立高校、上位10校で見ても10校中5校が都立高校となっています。
順位 | 学校名 | 人数 |
1位 | 日比谷高校 | 181人 |
2位 | 西高校 | 127人 |
3位 | 戸山高校 | 110人 |
6位 | 新宿高校 | 72人 |
9位 | 小石川高校 | 63人 |
14位 | 小山台高校 | 46人 |
16位 | 両国高校 | 42人 |
17位 | 上野高校 | 40人 |
これらの都立高校は、都立ナンバースクールと呼ばれた伝統校です。
一方、公立校が躍進したと言われる2021年の合格実績は、9位:日比谷高校(63人)、34位:西高校(20人)、36位:国立高校(19人)などとなっています。
確かに、日比谷高校をはじめ各校素晴らしい進学実績ですが、「復権」と呼ぶにはいささか厳しいと思うのです。
もちろん、東大進学者数のみで判断するのは適切ではありませんし、当時と現在とでは社会情勢は大きく異なります。
ただ、後述の学校群制度の導入が名門都立高校を壊してしまったのは事実だと思います。
学校群制度導入による都立名門校の瓦解
俗に「日比谷潰し」と言われた東京都の学校群制度が導入されたのは1967年。
加熱した都立高校受験の緩和と都立校間の学力格差是正を目的にしたと言われる学校群制度ですが、当初の目論見を遥かに上回る結果となり、都立校は凋落しました。
東京都が導入した学校群制度では、導入当初、7つの学区に分けられた東京都の学区内にある都立高校がいくつかの「学校群」に分けられました。そして、志望する高校へ直接出願するのではなく、その学校群へ出願するという形式を採用しました。
例えば、当時第1学区にあった日比谷高校は11群(日比谷・九段・三田)に区分されました。そして、11群に出願し、合格した生徒は、3つの学校のうちの1つに(ランダムに)振り分けられることになったのです。
ちなみに、第2学区の戸山高校は22群(戸山・青山)、第3学区の西高校は32群(西・富士)となりました。
学校群制度においては、合格しても希望する学校に行けない(可能性がある)わけで、これでは都立校を受験するインセンティブは大きく損なわれてしまいます。
同時に、当時名門都立高校に長年勤務していた指導力の高いベテラン教員の異動も行われたようです。
校風の形成要因
かつての名門都立校にはそれぞれの学校の持つ校風があったと思われます。
(良い)校風を形成する要因としては、2つの要因(条件)があると思われます。
② 教育に情熱を持つ優秀な教師の存在
この2つの要因が、学校群制によって大きく棄損してしまいました。
これに加えて、次の2つの要因も校風に影響を与えると思います。
④ 先輩・後輩のネットワーク
大学を含めた近隣地域の教育環境の好例としては、品川区の小山台高校(旧東京府第8中学校)があります。ちなみに、同校は政財界や教育、ジャーナリズムなど多方面に数多くの著名人を輩出する名門校です。
私は東京に結構長く住んでいるのですが、(恥ずかしながら)小山台高校のことはほとんど知りませんでした。
今回の記事を書くにあたって少し調べてみると、同校は東工大と地理的にも近いこともあり、かつては年間60人ほど東工大の合格者(東大は40名程度)を輩出していたと言います。「東工大に憧れて小山台高校を目指す」学生が多かったのではないでしょうか。
この地理的な近さというのは結構重要で、現在でも一橋大学の合格者に国立(くにたち)高校出身者はかなり多いです。
同じ志を持つ学生同士であれば友情や結束も高まりますし、同じ高校出身の先輩がその大学に多く在籍していれば、先輩の話を聞く機会もあるでしょう。また、(大学と高校が近ければ)先輩が高校に遊びに来てくれたりもするでしょう。このように、地理的に近いことの効用は大きいと思うのです。
そして、校風に影響する4番目の要因として先輩・後輩の(卒業後の)ネットワークがあると思います。これは高校卒業後にどのようなつながりが保てるかということです。やはり高校3年間だけではやや短い。
例えば、大学時代に限ってみても、同じ大学へ進む卒業生がそれなりの人数になれば、さらに4年間(修士課程まで進めば6年間)の期間が加わります。3年プラス4年の合計7年を高校・大学の友人と過ごすわけです。「高・大一貫校」のような感じになるでしょうか。
日比谷高校にしても、古くは、「府立一中 → 一高 → 帝大」とか「日比谷 → 東大」といったルートが確立していたわけで、かつての都立名門校はこうしたネットワークが出来ていて、それが校風にも反映されていたと思うのです。
学校群制が壊したもの
考えてみると、私立中学を受験するご家庭は志望校を決めて受験するわけですから、①の条件(その学校に入学したいという熱望)を満たしているわけです。
もちろん、教師が教育にかける情熱も重要な要因になります。私立中(高)の場合、教師の勤続年数は長く、また、教師自身もその学校のOB・OGだったりするので、教育熱心です。
私立学校は、強固な「校風」を形成・維持する要素を持っているわけです。
一方、東京都の学校群制度の導入により、①その学校を熱望する生徒の減少(=学校群制で、入学する学校に出願できないこと)、②優秀な教員(=教育に情熱を持つ教員)の異動が行われました。学校群制は校風を形成する上で重要な要因を破壊してしまったのです。
これでは(都立高校が)私立高校に敵うわけがありません。
一方、近隣地域の(大学を含めた)環境要因も重要ですが、これは立地の問題でもあるので偶然性に左右されます。この「大学とのつながり」を地理的要因に左右されずに構築しているのが私立の大学附属校と言えます。
東京への一極集中という潮流
東大合格者数に占める都立校出身者の割合が大きく下がった要因として、学校群制以外に考えられるものがあります。
それは、東京への一極集中の流れです。
それまでは、地元の名門高校を優秀な成績で卒業した学生の多くが(東京を目指さずに)地元の国立大学に進学した時代だった推測されます。それが東京一極集中により全国から東大受験生が集まるようになった。
地方の優秀な学生がいつ頃から中央(東京)を目指す傾向が強まったのでしょうか。
東京都の学校群制が導入された翌年の1968年(昭和43年)に兵庫の灘高校が(東大合格者数№1常連の)日比谷高校を(1人だけ)上回り東大合格者数トップになっていますが、この辺の時期が大きな節目だったのかもしれません。
完全にタラレバですが、学校群制を導入しなくても、(少子化や私立学校の隆盛と相まって)都立高校入試の過熱ぶりは徐々に落ち着いていったのではないかと思うのです。
偏差値偏重が校風へ与える影響
都立高校は、学校群制という(外からの)制度変更によって、その良き校風が失われてしまいました。
幸い、私立学校では国や行政による制度面に対する干渉がないので、長期的な教育ビジョンを維持しやすく、独自の校風を構築・維持しやすいと言えます。
一方、昨今の中学受験においては、偏差値による序列化が行われています。
その学校に入りたい主たる理由が、単に「偏差値が高いから」、単に「東大をはじめとする難関大学へ進学実績が高いから」だとしたら…。
進学実績が上がれば愛校心が高まり、逆に進学実績が少し低くなると愛校心が低くなるとしたら…。
学校は常に偏差値を意識し、進学実績を気にした教育を続けることを余儀なくされ、ひいては長年培ってきた「校風」が失われていく危険性があるのではないか…などと考えてしまいました。