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1960年代から1970年代の制度変更と構造変化
1967年に東京都で都立高校入試に学校群制度が導入されたことが中学受験ブームの発端につながった。1968年には早くも日比谷高校が東大合格者数全国首位の座から陥落する。
お株を奪ったのは関西の灘だった。その後数年は、灘と教育大附属駒場(現在の筑駒)が首位を競った。1974年、開成は高校から100人の募集枠を設け、1学年400人体制になった。そのまさに3年後の1977年、初めて首位に躍りでる。
以前のブログでも指摘したとおり、
① 東京都の学校群制度導入による(名門)都立離れが、東京都内における「高校受験 → 中学受験への動き」を生んだ。
②(交通網等の発達により)灘をはじめとした(東京以外の)名門校が東大(東京)志向を強めていった時期だった。
と思われます。
1960年頃の中高生の親世代は1920年代~1930年代生まれでしょうか。日本が戦争に向かっていく中、あるいは敗戦色が濃厚となる中で、それこそ「勉強どころではない」青春時代を過ごしたと思われます。
その後、豊かで平和な時代が到来したことで、(当時、自分たちがやりたくてもできなかった)勉強を子供達にさせてあげたい」という思いも、進学率の上昇や受験への熱量増大に寄与したと想像できます。
中学受験の過熱ぶりは昔からあった
ある書籍から引用する。いつ書かれたのかを想像しながら読んでみてほしい。
〈 どうみても異常なほどの学習塾ブームだが、この狂態が子供たちの将来にどのような影響をもたらすのか、予測はむずかしい。しかし、子供たちを学習塾へ通わせることへの、いくつかの疑問点は指摘できる。
心身ともに未発達な小学生たちに、学校プラス塾という長時間の勉強を押しつけてよいか。運動をしたり、友達と遊んだり、家族とスキンシップする時間が極端に少なくならないか。塾での“点取り競争”に熱中していると、将来、他人を顧みない利己主義人間になるのでは……。〉
2021年に書かれたものだと言われても誰も疑わないだろうが、実は1977年に書かれた『乱塾時代』(毎日新聞社会部著、サイマル出版会)からの引用である。
(中略)
いま現在の中学受験熱が異常なのではない。
(中略)
一部で中学受験が過激化していることは私も否定しないし、実際に中学受験を背景にした教育虐待も起きている。しかし悪いのはやり方であって、中学受験そのものではない。
私が記憶する限りでも、かなり前から小学生が電車で塾通いしている姿を見かけました。しかも夜10時とか11時頃に普通に電車内で見かけていたので、今よりもずっと(塾の)拘束時間が長かったと推測されます。
ということで、中学受験熱というのはここ最近始まったわけではなく、ずっと前からある(それが異常か正常かは別にして)ということでしょう。
現在、中学受験生を持つ親御さんは、まさに中学受験の渦中にいるわけです。
なので、「今が特別(厳しい・難しい)」という意識になりがちです。自分たちの(子供が)直面している時代は他の時代とは違う、というように。
しかし、(時系列でみていくと)それほど劇的には変わってはいないという見方もできます。
予習主義と復習主義(?)
1980年代まで、四谷大塚の「予習シリーズ」というテキストが、中学受験勉強の絶対的な王道だった。「日曜テスト」が行われる「日曜教室」に向けての予習を各自行うコンセプトだ。
(中略)
自力でテキストの解説を読み解いて練習問題に挑まなければいけないのだから、相当な読解力と自律性が求められる。この学習スタイルに適応できるかどうかという時点で、いわゆる“地頭がいい”といわれる子どもをフィルタリングする効果が働いていたと考えられる。
(中略)
さらに、自力で理解しようとしてうんうんうなっている時間が長いぶん演習問題の数をこなす時間は減るが、そのうんうんうなっている時間こそ、子どもが自らの思考を自由にフル回転させている時間であって、実は子どもの思考はそういうときにこそ成長する。その成長が必ずしも点数に直結するわけではないのだが。
(中略)
しかしサピックスは中学受験勉強のスタイルを変えた。毎回の授業の場でプリント形式の教材を配布し、その場で問題を解かせる。講師がいろいろな生徒の解法を拾いながら、討論形式で授業を進める。そして大量の課題が渡される。授業でやったことを思い出しながら、反復練習をくり返す。やりきれない分量の課題を渡されて、やればやったぶんだけ知識が定着するしくみだ。これがめきめきと成果を上げた。いわゆる復習主義の中学受験勉強だ。
以前書いた予習シリーズの記事にも関連しますが、「予習シリーズ」は「例題」の(深い)理解に基づき、練習問題や演習問題集等の様々な問題(類題)を(考えながら)解いていくことを想定した構成になっていると思われます。
言い換えると、例題の中で身につけた最小限の武器を使いながら問題にあたっていくことで、思考力を身につけるというコンセプトになっている。
この方法のメリットは、色々な問題に適用できる(本質的な)考え方を身につけることにより、(少な目の演習量で)多くの問題が解けるようになるという点にあります。
実際、サピックスや(同じ予習シリーズを使う)早稲アカなどに比べると、少なくとも四谷大塚の直営校で扱う問題は相対的に少ない(絶対量としてはかなり多いですが…)と思います。
一方、デメリットとしては深い理解や本質的な理解が伴わなければ、単なる演習不足になってしまうということが挙げられます。しかも、既存の知識なり考え方を、初めて目にする問題に応用していくというのは、小学生にはかなり難しい。
むしろ、様々なパターンの問題の解き方を覚えて、数値替えで反復演習する方が、方法論としては難しくない。
ただ、中学入試で次々に出題される問題をパターン化して反復練習するわけなので、非常に多くの問題演習をこなさなければならないというデメリットもあります。
ということで、以前書いた予習シリーズの記事の中でも、予習シリーズを使った2つの方法(「例題深堀」 or「反復練習」)を紹介しました。
どちらが合っているかは、お子さん次第(あるいは単元の理解度次第)と言えるかもしれません。
四谷大塚の職員も「復習主義のほうが学習効率がいいことは四谷大塚でも認識されています」と認める。それでも「四谷大塚では予習にこだわります。誰かに言われて動くのではなく、自分で解決法を模索できる未来のリーダーを育てたいからです」と言う。教育思想の違いである。
ここで言う、「予習」とは自力で問題を解いてみること(解こうとする努力をすること)だと思います。
私自身も「予習」は重要だと思いますが、ただ、必要な武器が揃っていない単元学習の段階で、解答の糸口がないまま考え続けることは、時間効率から見ると得策ではないと思います。
なので、予習するにしても例えば、1問あたりの時間を決めて行うといった方法が現実的でしょう。逆に、単元学習が一通り終わって入試レベル問題を解く小6以降になると、(すぐに解答を見ずに)自分の持てる知識で考える時間を延ばした方が良いように思います。
なお、「予習主義」と「復習主義」を対立概念として捉えることは意味がないと思います。なぜなら、両方とも重要だからです。
また、直前期ほど問題を解きっぱなしにせず、「問題から何を学んだか」という点を意識した勉強を行うことが望ましいと思います。