中学受験比率が比較的高い地域の小学校の場合には、小6(小5)の夏休みの宿題というのはさほど課されない(2日~3日で終わる程度)と思うのですが、大量に夏休みの宿題が課されてしまうとなかなか頭の痛い問題になります。
子どもの心に傷がつく影響、道徳感にヒビが入る可能性を考えて
夏休みの宿題を代行業者にやらせて、それをあたかも自分がやったかのように見せかけて提出するというのは、明らかに不正行為です。(中略)親としては、人格形成の途中である子どもが、こういった心の傷を引きずることのマイナスの影響を考えるべきです。
結局は上記の考えに尽きると思います。
例えば、親が子供の絵画や自由研究の宿題を手伝うというのは良くある話です。
私も小学校時代に夏休みの工作の宿題を父に手伝ってもらったことがあります。
そして、その作品がコンクールで入選してしまったのです。
小学校でも朝礼の時に表彰されたのですが、非常に気まずかった思い出があります。
(新学期初日に)工作の宿題を提出した時には特に後ろめたさを感じませんでしたが、入選という(自分の力では到底得られなかった)不相応な結果に戸惑い、恥ずかしさを覚えたのだと思います。
ところで、「宿題の手伝い」と「宿題の代行」は似ているようで決定的に違います。
私が「宿題の手伝い」をしてもらっている間、父の傍らで作業を見守ったり、あるいは自分自身も作業をしていたので、少なくとも当事者意識は失っていませんでした。
ところが、「代行」の場合は自分が一切関与することなく宿題が終ってしまう。ここには当事者意識はありません。
この差は非常に大きいと思います。
親をリスペクトできなくなる危険性も
もう一つ心配なのは、親に対する不信感も抑えがたくなるということです。(中略)「嘘はいけない。正直に生きなさい」「ルールを守りなさい。ズルはいけません」と言っていたその人が、「宿題を人にやらせて、自分がやったことにしなさい」と言っているのです。
これも「宿題を手伝う」ことと「宿題代行」と決定的に異なる点です。
親が宿題を手伝うことで、子供の自主性、自己完結できる力は多少損なわれるかもしれません。
しかし、親子の共同作業(あくまで子供が主という意識を子供に持たせて行う共同作業)という形で宿題を手伝うのは、親子のコミュニケーションが生まれたり、親へのリスペクトや感謝の思いを醸成する効果もあります。
もちろん「『手伝い』ならば何でもOK」と言うものではありません。
例えば、計算や漢字ドリルの宿題が沢山出されたとして、「親が漢字ドリルの方を引き受ける」とか、計算ドリルの「前半は子供が、後半は親がやる」みたいな手伝い方は、結果的に一部にせよ「代行」したことになるので望ましくないと思います。
このように明確に役割分担を分けてしまうと、子供の当事者意識が薄れたり無くなったりしてしまうからです。
「手伝う」場合には、あくまで共同作業という形で「子供自身が宿題をやっているという感覚」を失わせないようにすべきだと思います。
ただ、もし(ドリル系の宿題のように)共同作業がしにくい宿題が大量に出されてしまうと少々厄介です。
その場合には、塾の宿題の合間に「気分転換に毎日1~2ページやる」というように細切れにする、時間を測ってタイムを競うなどゲーム感覚を取り入れる、といったことが考えられます。
ただ、それでも量が多いようなら、この後で書かれている「交渉」になると思います。
どうしても宿題の時間が取れない場合は、正直に先生に話して交渉を
ですから、もしどうしても受験勉強のために夏休みの宿題をやる時間が取れないなら、先生と交渉して宿題を減らして(もしくはナシにして)もらった方がいいでしょう。その方がよほど正々堂々としています。
実は、我家も中学受験準備を始めた頃、「もし小6の夏休みの宿題が多かったら、この方法で対処しよう」と思っていました。
結局は、杞憂に終わったのですが…。
この方法がやはり正攻法だと思います。
子どもの教育や将来への責任を担うのは親相談スタイルで交渉を
そして、さらに言えば、日頃の宿題についても同じことが言えます。(中略)学校の宿題は子どもたちの学力差を考慮せず一律に出されます。(中略)このような状態が続くのは、子どもの人格形成によくありませんから、親が先生に事情を話して宿題を減らしてもらう必要があるのです。ただし、こういった交渉はけんか腰のクレーマー的なやり方でなく、大人の交渉術で上手にやって欲しいと思います。
「公教育 vs. ○○」といった構造にしないことが肝心ですね。
公教育については不満はあるとは思いますが、あくまで相手(学校の先生)に敬意を払い、その一方で、自身の家庭や子供の事情を伝えて(できる範囲で)配慮してもらう、ということになるでしょうか。
これですべてが事がうまく運ぶとは思いませんが、正攻法に勝る手立てはないと思います。