今日は会話形式ではなく、中学受験関係の記事に関連した私見を述べさせていただきます。
記事はこちらになります
事例(記事タイトル)は読み手を惹きつける
この記事には「事例」が使われていますが、「事例」というのは人を惹きつけますね。
もっとも、読者を惹きつけるのは「記事タイトル」の方でしょうか(なかなか刺激的なので)。 😎
ただ、受験の国語の読解問題も同様ですが、「例」というのはあくまで著者の主張をサポートする補助的役割を持つに過ぎません。「例」は脇役であって主役ではない。
この事例を通じて、筆者が何が主張したいのかという点が重要です。
ちなみに筆者の主張が出てくるのは3ページ目ですね。ここまで読まないと、言わんとすることが分かりません。
刺激的な記事タイトルと筆者の主張は大分違うような気がします。
事例は脚色される
事例というのは往々にして脚色されます。
「事例」は、自分の主張をサポートするための手段ですし、また、個人の特定につながらないように所々変えたりします。いわば、架空の世界です。
私もビジネス系の著作(コンサル事例とかをとりあげた共著もの)がありますが、守秘義務がありますので実在の会社の事例をそのまま使うことはしません。
いくつかの会社の事例を混ぜたりして(分からないように)アレンジするわけです。そして、自分の主張を裏付けたり、説明し易いように多少修正したりもします。ちなみに、学術書や学術論文とかで事実と違うデータを使ったら完全にアウトですが、ビジネス書はその辺結構いい加減です。
ということで、事例自体は(筆者の主張ほど)重要ではないのですが、軽く見ていきたいと思います。
上記の事例を見ると、中学受験はむしろうまくいった部類ではないかと思いますね。
お金は少しかけ過ぎたかもしれませんが。
問題は、どこか納得がいっていないお母さん…ですね。
著者の主張に注目
事例やタイトルに引っ張られてしまうと、「沢山お金かけた割には、それほど良い結果は出なかった。」という見方になるのかもしれませんが、そもそも「お金をかけた方が成績が上がって偏差値の高い学校に行ける(はず)。」という発想自体が意味をなさないと思います。
筆者の主張は以下の通りです。
由美子さんは多分、「中学受験の底なし沼」に入り込んだ状態だったのではないかと、筆者は想像する。この状態に陥ると、目先の偏差値を上げることが目的になりやすいので、「何のために中学受験をするのか」という視点が消え失せてしまう。ここが、中学受験の怖い部分でもあるのだ。
本来「中学受験」は、我が子に与えたい教育環境、我が子が伸びる学校などという視点を持って、我が家の“教育方針”をじっくりと考えた上でなされるもの。
現在は「中学受験ブーム」であり、それはコロナ禍であっても続いているが、「みんながやっているからウチも……」というような理由で、周りの空気に流されて参入してしまうと、中学受験をする意味がわからなくなることが多い。
結局、事例のお母さんは「中学受験」に関する自分の考えを明確化・整理できないまま、中学受験ブームに翻弄されてしまった、ということが問題だと筆者は考えているんですね。
最後まで納得感が持てないまま走り切ってしまった。そして今なお残るモヤモヤ感。
本来は「家庭が主役」となるべきところ、「他のお子さんの成績」、「塾の言うこと」、「偏差値」など「脇役」の方に左右されてしまった…と。
中学受験の主役であるお子さんが進学先を気に入っているというのがせめてもの救いです。
では、どうすればよいか?
「比較好き」という点での個人差はあるものの、総体として人間の習性はそう簡単に変えられません。
ではどうするのか? ここからは私見です。
一つの策としては、「直接の比較対象」からはできるだけ距離を置くことですね。
「同学年で同性の学校のお友達、しかも近所に住んでいて親同志がママ友」とかになると、「最強の直接比較対象」になってしまうので要注意。 😯
そこで、「直接の比較対象」とは、同じ塾の同じ校舎に通うのは避けるのが得策です。例えば、「違う塾、あるいは、同じ塾でも違う校舎」を選ぶことです。
成績とかで、勝っても負けても気分良くないですから。
中学受験に関しては、「直接の比較対象(となりそうな存在)からはできるだけ距離をとること」は結構重要だと思います。
☛ これは良くあるケースですね。
「友達が一緒に行くから自分も…」というのは、塾に通い始めのほんの「一時のこと」なんです。最初は心細いですが、塾ですぐ友達は出来ますからね。むしろ、後述するように、学校の友達と一緒じゃない塾を選んだ方が良いくらいです。