「東大以外は浪人する価値が無い」高校生がそんなことを言う日本の”残念な受験の実態”

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本日は、以下の記事に関連して、我々世代の大学受験と現在の大学受験の違い(大学の役割の変化を含めて)などを考えてみたいと思います。

「東大以外は浪人する価値が無い」高校生がそんなことを言う日本の"残念な受験の実態" 大学受験の合格発表の季節…子の結果に親としてどんな言葉をかけるか
大学で何を学んだかよりも「どこの大学に行ったか」が重視されがちな日本。今年の大学入学共通テストでは、東大前で高校生による刺傷事件、そして受験生によるカンニングが起きました。大正大学准教授の田中俊之さんは「大人たちが若者に、学ぶことの本来の意...

今年の大学受験の2つの象徴的事件

今年の大学入学共通テストの日、試験会場である東京大学の前で男子高校生が3人を切りつける事件が起きました。

(中略)

また、共通テストでは、試験中に問題を撮影し、家庭教師に送って解かせようとした“カンニング騒動”も起きました。

(中略)

こうした思い込み(※ どこの大学に入ったかで将来が決まる)があると、受験生は学びたいことに合わせて大学を選ぶのではなく、できる限りいい大学、つまり偏差値の高い大学をめざしてしまいがちです。加えて日本では、大学受験は高校3年生のときにするもので、志望大学に入るには入試当日のワンチャンスしかないと思っている人も少なくありません。

今も昔も(偏差値が定着した頃から)、こうした思い込みは少なからずあったように思います。高校生(受験生)は、社会に出て働いた経験はほぼないので、大学とセットで偏差値が示されれば、少しでも(偏差値の)高い大学を目指す思考になるのも不思議ではありません。私の受験時代もおおむねそんな感じでした。

ただ、当時(私の時代)と今で違うと思うのは、受験生達のこうした「熱狂」に対して、周囲がそれほど熱くなっていなかったように思います。

親や学校の先生も、「頑張って、行ける大学に行けばいいじゃないの?」みたいな感じだったと思います。少なくとも、社会全体のシステムにおいて、大学にはそれほど関心・期待感はなかったという気がします。

「モラトリアム」としての”かつての”大学

我々の時代、大学生でいられる期間は一種の「モラトリアム」という位置づけが強かったように思います。簡単に言えば、次のような感じです。

・「今まで頑張って勉強して入学したご褒美として、4年間のんびり過ごしても良いですよ。」
・(その代わり)「大学を卒業したら、企業(社会)でしっかり働いてもらいますよ。」

企業では、長期雇用(≒終身雇用)を想定しており、大学での教育内容にはあまり興味は持っていなかったと思われます。

というのも、日本企業では、新入社員を一から鍛え上げる仕組みががデフォルトだったからです。これはコストがかかりますが、長年働いてくれる社員ですし、また、体力的にも「丸抱え教育」をする余裕が当時の日本企業にはありました。

ローテーションを煩雑に行うのも大企業の特徴で、様々な部署を経験させることで、社内における人的関係と社内の仕組みを効率的に身につけさせる。専門職よりもゼネラリスト育成を重視していたわけです。

このことは、平成25年版の「労働経済白書(労働経済の分析)」において、端的に記述されています。

日本で長期雇用やいわゆる年功賃金といった雇用慣行が定着したのは、高度経済成長期であったとみられている。日本企業にとって、経済成長が引き続き見込まれる中で、長期雇用を前提に長期的な視点に立って人材育成を行い、組織の一体感の醸成、企業特殊的な能力の効率的な形成・蓄積のため、例えば、若年期には労働者の生産性より低く、中高年期には生産性より高い賃金を支給することにより、育成した労働者の移動を防ぎながら、労働者の職業生涯を通した全体でその生産性に見合った賃金を支給することは合理的であったと考えられる。(出典:平成25年版 労働経済の分析 P.166)

企業を取り巻く環境の変化

「白書」で言う「企業特殊的な能力」とは、簡単に言えば、その企業で「のみ」生かせる能力。社内ルールや企業文化の理解、会社との一体感の醸成、社内の人間関係の構築等が挙げられます。

企業特殊な能力を高める教育を長年受けてきた社員は、その企業では極めて有用な社員に成長します。しかし一方で、労働市場という汎用的な能力が評価される場では、相対的に低い評価(つまり転職しようとしても、現在勤務している企業よりも安い賃金)しか提示されないことになります。

これは個人にとっては(他所で通用しないという)デメリットがありますが、会社にとっては(離職を防ぐことができるので)好都合。この仕組みにより、社内で育成した人材の流出を防ぐことができたのです。

逆に、「個人の汎用能力を高める教育」は、労働市場における個人の相対価値の増加につながるので、個人にとってはメリットが大きいものの、離職リスクを高めてしまうので、企業として積極的に行うことはない(少なくとも経済学の理論上では)と考えられます。

したがって、汎用的な能力を高める教育は個人で(企業外で)行うことになるわけです。

(なお、上記の記述はかなり大雑把な記述になってしまっているので、正確には、以下の「組織の経済学」第Ⅴ部などを参照ください。)

ところが、日本経済を取り巻く状況が変化し、企業は熾烈な競争環境に直面するようになります。もはや入社当初から丸抱えで教育をする余裕はない「即戦力人材」なる言葉が出てきたのもこの頃でしょうか?

労働市場の流動化が進展したため、せっかく新卒から育成して、「さあ! 今までかけてきた投資額をこれから回収しよう」と思った矢先、社員が辞めてしまう。

さらに、「テクノロジーの進展」、「語学(英語)力の必要性」、「論理的思考力」、「実行力」などなど、(ある意味)汎用的な能力が求められるようになってきた。

すなわち、入社してからずっと同じ企業に勤め、「企業特殊な能力」が高く忠誠心の高い社員だけでは企業経営に支障が出始めた。そこで(汎用的)能力は高いが、企業に対する忠誠心の低い(≒少々扱いにくい)人材に頼らざるを得なくなってきた、という状況になってきたわけです。

大学への期待の変化

かつては、モラトリアム期間を過ごす「空白地帯」として、企業側(社会)はあまり注目してこなかった大学。

しかし、親入社員をゼロから教育する余裕がなくなってきた企業にとって、「ある程度の汎用的能力は、大学時代に身につけさせておいて欲しい」ということになる。

TOEICなどの英語試験、IT技術をを始めとする各種ビジネス資格(検定)などの受験(受検)が、各大学で推奨され始めたのもこの頃でしょうか。

世の中の変化は激しいので、「こうすれば一生安泰」などと言うことはない。その時々で必要な知識やスキルがドンドン変化するので、自分に足りないモノがあればそれを継続的に補う必要がある時代になってきたわけです。

親世代の意識変革も

何のために合格したいのかではなく、合格すること自体に重点を置いてしまうのは大きな問題です。これは日本の教育が招いた弊害と言えるでしょう。いまだに偏差値の高い大学に合格することがよしとされ、そのため高校3年生になると試験科目以外は勉強しなくなる場合も少なくありません。

こうした風潮を変えていくには、親の姿勢も大切になってくると思います。子どもに「何のために勉強するの?」と聞かれて、親が「いい大学に入るため」としか答えられないようでは、子どもは受験期に大きなプレッシャーを抱えてしまう可能性があります。なぜ大学に行くのか、なぜ学ぶのか、本来の意義をきちんと伝えられていないからです。

人生100年時代と言われますが、かつては大学を出て安定的な場所(=組織)を得れば、その後の人生はある程度保証されていました。

しかし、世の中が大きく変化して、時代とともに必要とされる知識や技術も日々進化(変化)しています。社会に出てからも学び(より正確には、「探索活動」というべきでしょうか)は続くということだと思います。

大学に入学するということは、大学以降での学びのための第一歩に過ぎません。

unleraning(既存の常識を意識的に捨て去り、新しく学び直すこと)を含めて、Lifelong Learning(生涯学習)を意識せざるを得ない時代になっていると思います。

 

 

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