本日の記事はこちら ↓ なかなか過激なタイトルです。
コンテンツの学力は役に立たない
和田 前回(『日本人は「世界一アタマが老化している」…中野信子と和田秀樹が警鐘を鳴らすワケ』参照)勉強のシステムハックが出ましたが、受験勉強を通じて身につけたコンテンツの学力というのは、ほとんど役には立たないんですよ。
(中略)
ただ、「勉強する能力」だけは身につきます。これは後々まで役に立ちます。
受験勉強により身につけたコンテンツ(恐らく、「情報」とか「知識」という意味でしょうか)というのは、確かに(受験が終われば)あまり役に立たなくなります。
例えば、「PCのHDDなどは人間が一生かかっても記憶できないくらいの情報量を正確に保存できるので、知識偏重には意味がない」というような文脈ですね。
30年位前から言われていることで、最近の大前研一氏の発言などはさらに過激ですね。
試験では、「記憶(インプット)」したものを制限時間内に「表現(アウトプット)」する力しか測れないわけです。
選抜制度として試験を利用する以上、試験合格のために受験勉強になるわけで、試験の宿命(限界)がそのまま受験勉強の限界にもなるわけです。
もちろん、受験勉強を通じて「勉強する能力」が身につきますし、また、例えば数学の定理の証明方法などを学ぶことで、論理的な考え方を身に付けることもできますので、全く役に立たないということはないと思います。
知識量より、新しいことを思いつけるか
和田 僕は、頭がよくなるためには、やっぱり勉強しないといけないと思うんですよ。でも世間が言うところの勉強って、みんなインプット(入力)だけ。記憶だったり知識だったりの量が多いことを「よし」とするわけ。
でも、僕はそうは思わない。持っている知識は多少少なくなるかもしれないけれど、むしろ「加工能力」なり「応用能力」なりを磨いて、知識を生かして新しいことを思いついたり、発信できたりすることのほうが、ずっと「頭がいい」と思います。
試験を(やや乱暴ですが)ザックリ分類すると、
①基礎的な知識をもとに、考えさせるタイプの問題が多い試験
②かなり細かい知識まで問われる試験
の2パターンに分かれると思います。
そして、試験の難度を上げる方法として、①考え方や発想等の新規性を問う、②新分野から出題する、という2パターンがあると思うのです。
①のタイプの試験を作ったり、難度を上げるのはかなり労力が必要ですが、②のタイプの試験の作成や難度アップは比較的簡単です。
そして、②のタイプの試験が増えてくると、結果的に(試験に合格するために)全範囲にわたって細かい部分まで勉強する必要が出てくる。
こうした細かい知識を問う試験の割合が高まってくると、暗記偏重型が強まるように思います。
知らない世界を探求してモノにする
中野 「勉強法を自分で考える」というのは、まさに根治療法みたいなものではないでしょうか。「知らない世界」をどれだけ自分のものにできるか、そのパワーの強さが試されるものだと思います。
「知らない世界を探求し、自分のものにするトレーニングを10代のうちにやったほうが得ですよ」と伝えたい。それこそ本来の学びであるはずだ、と思います。そこの部分が、高等教育の世界でもあまりにも揺らいでしまっているのが、根の深い問題としてあると思います。
「自分の型」を早く身に付けることができると確かに強い。
残念ながら私は、学生時代は塾や予備校にかなり依存していたので、自分なりの型を作り、独学で成果を上げられるようになったのは社会人になってからでした。
勉強法を自分でゼロから考えるというのはかなり難しいと思いますので、ある時期は予備校や塾など他者に頼ることも必要だと思います。
ただ、他者への依存しきっているうちは所詮「仮の姿」。他者への依存割合を徐々に減らしていき、(失敗しながらでも)少しずつ自分の型を身に付けていくことが大切だと思います。
幸い、中高一貫校の場合は高校受験がないので、中学時代には色々試行錯誤できる環境があります。いろいろな方法を試し、無駄なこともたくさん経験しながら、自分なりのスタイルを作り上げていくことも大切だと感じました。