本日の記事はこちら ↓
「探究的な授業」とは?
矢萩:(中略)僕自身は知識や経験の有無や習熟度に関わらず、みんなが一緒に参加し、思考できる授業を「探究的な授業」と考えています。ですから、模範解答や正解はないですし、知識や経験に違いがある人が集まれば、より多様な方法やプロセスになります。
この記事をベースに「探究的な授業」を整理すると、まず、(参加者として)前提となる知識や経験が必要か、という問題があります。
知識に関係なく、全員参加で議論できるテーマを選ぶ必要があるわけですが、(数学、理科、社会といった)学校の正規科目カリキュラムの中から、このような条件を満たすテーマを選ぶことは、結構難しい。
仮に、誰も知らない(馴染みのない)であろうテーマを選ぶ場合、議論の前提としての予備的な授業が必要になったりするので、その時間も考慮する必要があります。
あるいは、「貧困」、「差別」、「格差社会」といった「道徳的(倫理的)テーマ」や「哲学的テーマ」であれば、そもそも正解はありませんし、知識面の差異は影響しません。しかし、ファシリテートが非常に難しい。
効果的な「探究的な授業」を行うためには、事前に教師側も相応のトレーニングを積んでおく必要もありそうです。
矢萩:大事なのは参加者の知識レベルより、ナビゲーターとしてのマインドセットや、ファシリテーションの技術ですね。つまり、先生が知識がないとついてこられないような授業をしていたならば、それは探究にはなりにくい。知識がない人が置いていかれてしまうんですね。往々にして偏差値の高い学校の探究授業にありがちなんですが。「知っていることが前提」、みたいな。
記事にもある通り、(学習の質は)ファシリテータである教師の経験や力量にも大きく左右されます。
教師は授業時間の何倍もの時間をかけて準備しないと、質の高い授業は展開できないでしょう。
ファシリテータ―としての教師の力量に加え、生徒が興味を持って参加するかどうか(=生徒の参加意識)も学習の質を決める大きなポイントです。
① ファシリテータ―としての教師の力量
② 授業に対する教師側の入念な準備
③ 全員参加できる適切なテーマ設定
④ 生徒側の高い参加意欲
これらの要素がそろってはじめて有意義な「探究的な授業」が実現できる、と言えそうです。
探究学習の目的 ?
矢萩:そもそもの話をすれば 探究学習っていうのは目的ありきの活動ではないのです。その活動をしていたら、結果論としてこういうことが身につきましたっていう感じです。身につくことは人それぞれです。しかし、これを身につけるために探究学習をやりますって言うと、それはもう探究じゃないんですよ。
(中略)
安浪:そう考えると探究していく過程で本当に必要なのは、単なる知識ではなくて、その子なりの興味なのかもしれないですね。その興味をどう引き出していくかが、先生側に問われるということですね。
「探究学習」にも、長期的視点に立った「目的」というのはあると思います。
例えば、「自ら」学びを深めていく能力・姿勢の醸成というものでしょうか。
しかし、記事にもある通り、具体的で目に見える(短期的)効果を期待する、という発想は馴染まないと考えます。
いくら、面白い・有益な「授業」を展開しても、(知識習得型の学習ではないので)授業だけでは完結しません。
「あー面白くてためになった。さて、次の(探究)授業は…」というように、(所定のカリキュラムを消化するように)次々とこなしていくタイプの学習ではないと思います。
授業では完結しない
極論すれば、授業の理解度と探究学習の成果はほぼ無関係と言えます。「授業」は主体的な学びのための契機に過ぎないからです。
例えば、授業に参加した後、「難しくてよくわからなかったけど、面白そうなテーマだな。家に帰ってさっそく調べてみよう。」と思える生徒がいれば、その生徒にとって、今日の探究的な授業は意味があったと言えるのではないでしょうか。
あるいは、授業を受けた時点では興味が持てない場合もあるでしょう。
しかし暫くして、「そういえばあの時のテーマは…」などと後から思い出して、自分で学習を深めていく。そうした可能性もあるわけです。
特別な場を設定しなくても
探究学習やらアクティブラーニングやら、最近では教育の方法論の用語が色々出てきますが、個人的にはやや冷めた目で見ています。
もちろん、これらの方法論を否定するわけではありません。しかし、誰に対しても、常に効果を発揮するような万能な教育法は存在しないと思います。
また、全員参加で議論を進めていく「探究的な授業」という特別な場を設定しなくても、授業中の先生の何気ない雑談の中から「興味の種」を見つけ、自らの学びにつなげていくこともあるでしょう。
さらに言えば、全員参加型で議論をして進めるよりも、一人でじっくり考えるのが好きなタイプの生徒もいるでしょう。
様々な(効果があると思われる)教育方法について、方法論をある程度共通化し、系統的に整理するということには意味があると思いますが、「こういう方法で教えるべき」とか「こういう効果が期待できる」というように、型にはめていくのは無理がある。
同じ教育を施しても、誰にでも同じような効果を与えるわけではありません。
個人によって時間差があったり、異なった反応や予期しないような素晴らしい成果を生み出す可能性もある。
(学校としては)「生徒個々人の知的興味を刺激するため、様々な工夫をしたり、様々な方法を試してみる」ということが重要なのだろうと思います。